〜 由良から出羽三山へ 蜂子皇子物語 〜
八乙女伝説
山形県鶴岡市由良は、「出羽三山」開山の祖(「出羽三山)を開いた)「蜂子皇子」が上陸し、修行の後、羽黒山へと向かった地である。
|
|
■ローソク岩 |
■八乙女浦
|
蜂子皇子(はちこのおうじ)は、飛鳥時代の崇峻(すしゅん)天皇の子であった。羽黒山に残されているのは、人々の苦しみや悩みを引き受けた姿だという。
当時、仏教受け入れを巡って賛成派の蘇我(そが)氏と反対派の物部(もののべ)氏が対立し、内乱が起こった。蘇我馬子(そがのうまこ)は、崇峻天皇を即位させ、物部氏を倒して実権を握った。しかし、崇峻天皇は自ら国を治めようとしたため、蘇我馬子に暗殺されてしまう。蜂子皇子は、従兄の聖徳太子らの助けで追っ手を避け、都から逃れた。
京都(丹後)の由良の港から北を目指し、途中、福井や新潟、佐渡に立ち寄りながら、五九三年の春、庄内に辿り着いた。庄内の由良の名は、蜂子皇子が出航した京都の港、由良にちなんでつけられたとも言われている。
八乙女浦(やおとめうら)の絶景に蜂子皇子がただただ心を奪われていると、美しい鈴の音と清らかな歌声が流れてきた。
その声に導かれるように舟を進めていくと大きな洞窟があり、その入り口近くの平らな岩の上で八人の乙女たちが舞っていた。ところが蜂子皇子の船に気がつくと乙女たちは姿を隠してしまった。蜂子皇子は不思議に思い、船を寄せようとしたが、波しぶきが激しく散り、船は思うように進まない。その時、二人の乙女、恵姫(えひめ)と美凰(みおう)が岩の上に姿を見せ、手招きして岩を避け、船の進む道を教えた。
やがて他の乙女たちも不安そうに顔をのぞかせた。
蜂子皇子が天皇家の者で、人々を苦しみから救うため、出羽の聖なる山を目指していることを伝えると、乙女たちは顔を見合わせた。八乙女の恵姫が八乙女浦は、山の神様が生まれた所で、荒倉山(あらくらやま)を越え、東へ向かえば、聖なる山に着くと教えた。
蜂子皇子は、八乙女に導かれて上陸した洞窟「権現穴(ごんげんあな)」に籠って修行を重ねた。
乙女たちは修行の邪魔になることを恐れ、声をかけることも姿を見せることもなかった。乙女たちなのか、由良の里の者たちなのか、時々食べ物のかごが置かれていた。タイ・アジ・カレイなどの魚、サザエ・アワビなどの貝、アオサなどの海藻…豊富な海の幸、由良の豊かな恵みを蜂子皇子は感謝していただいた。時には、さわやかな潮風に誘われて、権現穴から出て、由良の砂浜をそぞろ歩いた。白山島へ足を延ばすこともあった。
由良の海と風は、蜂子皇子の身も心も洗い清めてくれるように優しく、穏やかだった。空と海を真っ赤に染めて沈む夕陽に言葉を失い、立ち尽くすこともあった。こうして由良の自然と人々に見守られながら、蜂子皇子の修行は続いた。ある朝のこと、聖なる山、出羽三山から清らかな光が立ち上がっているのを見た。
蜂子皇子は、由良の東側の荒倉山に登り、はるかに遠く連なる出羽三山を仰ぐと、無事に辿り着けるよう祈った。荒倉山の麓には、大きな湖が広がっていた。
蜂子皇子がこの湖の周り回るしかより道は無いのか、と半ば途方に暮れて歩いていると、村に着いた。
「竹の浦(たけのうら)」という。
ほとりにつなげてある川舟のそばで、網の手入れをしていた村人に出会った。蜂子皇子が対岸へ運んでくれるよう頼むと、村人は快く引き受け、蜂子を船に乗せて湖を渡った。
対岸の村「山添」に着くと、近づいた聖なる山は大きく、神々しく、清らかな雲がたなびいて、ますます蜂子皇子を招いているように見えた。山添で方角を見定め、禊(みそぎ)をすると、蜂子皇子は東を目指した。途中、豊かな冷たい雪解け水をたたえる赤川を苦労して渡った。
小高い丘の松の下に蜂子皇子は腰を下ろした。つい、うとうとした夢の中に、白いひげの老人が現れ、この先の分かれ道では、桔梗(ききょう)のたなびく方へ進むよう告げた。
目を覚ました蜂子皇子が歩いてゆくと、夢の中で老人が言った通り、別れ道に出、たなびく桔梗に従って道に迷うことなく進むことができた。
すっかり日が暮れ、明かりを頼りに訪ねた蜂子皇子が戸を叩くと、出てきたのは一人のおばあさんだった。蜂子皇子は、東の聖なる山を目指しており、休ませて欲しいと頼んだ。おばあさんは、玉と名乗り、夜、山に入るのはやめ、泊まるように勧めた。翌朝、蜂子皇子は玉から道を教えてもらって東を、目指した。後にここに建てられた玉川寺(ぎょくせんじ)に、「玉刀自(たまとじ)」観音として祀られているのが玉だという。
山の奥深く分け入った蜂子皇子は、道を見失った。不安に思い、修行が足りなかったのか、観音様に助けを乞う。
途方に暮れた蜂子皇子の前に突然、大きな鳥が舞い降りた。驚いたことに、足が三本ある。この大鳥は、その昔、神武天皇を大和へ導いた八咫烏(やたがらす)であった。
八咫烏が蜂子皇子の目の前で舞い上がると、「ついて来るように」と言うように蜂子を振り返り、そしてゆっくり輪を描いて飛んだ。蜂子皇子は、シダや草木をかき分けながら、八咫烏の後を追った。やがて、八咫烏は、滝音がとどろく谷間の杉の木に止まった。
その根元の地面を覆う落ち葉から、うっすらと光が射している。その葉をかき分けると、観音像が現れた。
蜂子皇子は聖徳太子から聞いた聖なる山に辿り着いたことを感謝した。
蜂子皇子は、阿久谷(あこや)で修行を積んだ。蜂子皇子にお経で病を治してもらったお返しに、国司が観音堂を建て、羽黒山寂光寺が開かれた。
また、蜂子皇子の夢に観音様が現れ、修行を労い、人々を救い続けるよう励ますと、八咫烏に姿を変えて雪に輝く峰へと飛び去った。
蜂子皇子は、春の雪解けを待って、夢に出てきた雪の山へ登った。
頂上で阿弥陀様(あみださま)に合い、夜と死後の世界を支配する「月の神」の土地だと気付き、「暮礼山月山寺(ぼれいざんがっさんじ)」と名付けた。また、月山を下るとお湯の湧く地で大日(だいにち)様に合い、光と再生とを司る太陽神「湯殿山」と呼び、ここに出羽三山が揃った。
その後も蜂子皇子は、人々のために祈り、多くの寺を建て、人々を病気や災害から救った。このため、人々から慕われ、後世「能除太子(のうじょうたいし)」と呼ばれるようになった。
蜂子皇子は六四一年六月二十日、七九歳で世を去った。羽黒山の北の、「元羽黒」と呼ばれる皇野(すべの)から五色の雲に包まれて月山の彼方へと消えたという。
蜂子皇子の墓と言われている場所は三か所。一つは、昇天の地、皇野の開山塚(かいざんつか)。羽黒山頂には、江戸時代後期に照見大菩薩(しょうげんだいぼさつ)の名をいただいた記念碑の建つ開山廟(かいさんびょう)と明治初頭に政府が羽黒山頂に定めた地との二か所がある。
蜂子皇子が籠った洞窟「権現穴」は、羽黒山頂の鏡池とつながっていると言われ、羽黒山の火事の時、洞窟から煙が出た、と伝えられる。また、羽黒修験(しゅげん)の山伏修行「峰中(ぶちゅう)」は、かつては「権現穴」から出発していたという。羽黒山に使える巫女や神職は、由良からの八乙女と八童子から始まったということである。
そもそも羽黒山の神は、八乙女浦で生まれたとの伝承もある。羽黒山と由良の深いつながりは、山々を目印として海に出る漁師や船乗りたちの信仰とも結びつき、広がっていったのだろう。
八乙女とは、八人の乙女ではなく、由良比売命(ゆらひめのみこと)、または、白山島に祀られている妙理姫(きくりひめ)の命(みこと)の化身だという説もある。
今、由良の浜辺には、八乙女の中の恵姫と美凰の姉妹の像が立っている。蜂子皇子を差し招き、出羽三山へと導いた八乙女。由良の人々を見守り、今も訪れる人々を優しく出迎えている。